凸版印刷のアートイノベーション
凸版印刷が開発した「アートイノベーションフレームワーク」の全体像。アート思考を組織的な新事業創出の方法論として体系化した先進事例を、フレームワークの構造・実践手順・成果の3軸で分析する。
アート思考をビジネスに導入しようとする企業は多い。だが、そのほとんどが「ワークショップを1回やって終わり」になる。個人の感性に頼ったままでは、組織として再現できない。凸版印刷(現TOPPANホールディングス)は、この壁を「フレームワーク化」で突破した。
「アートイノベーションフレームワーク」とは何か
凸版印刷と京都大学は2020年、アーティストの思考ロジックを体系化した 「アートイノベーションフレームワーク(Art Innovation Framework)」 を共同で発表した。監修は京都大学大学院総合生存学館の土佐尚子特定教授。メディアアーティストとして国際的に活動する土佐氏の創作プロセスを分析し、ビジネスに応用可能な形に翻訳したものだ。
このフレームワークの特徴は、アーティストが作品を生み出す際の思考を 5つのステップに分解 した点にある。「感性を大切にしましょう」という抽象的な呼びかけではなく、具体的な手順として再現可能にした。ここが従来のアート思考導入と決定的に異なる。
5ステップの構造
フレームワークは以下の5段階で構成される。
ステップ1: 発見
アーティストが日常の中から「引っかかるもの」を見つけるプロセスに対応する。ビジネスの文脈では、 既存の前提や常識に「違和感」を感じ取る力 を鍛える段階だ。市場調査やデータ分析とは異なり、主観的な感覚を起点にする。
観察力をビジネススキルとして捉える視点がここで活きてくる。数字に表れない「何かおかしい」を拾い上げる力が、イノベーションの種になる。
ステップ2: 調査
発見した「引っかかり」を深掘りする段階。アーティストが素材を研究し、技法を探究するように、 自分が感じた違和感の正体を多角的に調べる 。フィールドワーク、文献調査、異分野の専門家との対話が手段として用いられる。
ここでのポイントは、仮説検証型のリサーチとは異なること。答えを確認するためではなく、 問いを深めるために 調べる。
ステップ3: 開発
調査で得た知見をもとに、自分だけのオリジナルな表現手法を検討する。アーティストが独自の技法や様式を確立するプロセスに相当する。ビジネスでは、 既存のフレームワークを借りるのではなく、自社固有のアプローチを生み出す 段階だ。借り物の戦略ではなく、自分たちの違和感から生まれたアプローチだからこそ、競合には真似できない。
ステップ4: 創出
頭の中にあるものを、手を動かして形にする。アーティストが作品を制作するように、 プロトタイプを素早く作る 。完成度は問わない。粗くても形にしてみると、想定していなかった課題や可能性が見えてくる。
ステップ5: 意味づけ
アウトプットしたものが何であるかを、 他者にも理解できる言葉で説明する 。アーティストが作品にステートメントを付けるように、自分の創出物にビジネス上の意味を付与する。
この「意味づけ」が最後に来る構造は意味深い。通常のビジネスプロセスでは、最初に「目的」や「意味」を定義してから動き出す。このフレームワークでは、 動いた後に意味が立ち上がる 。アート思考の「自分起点」が、ここに凝縮されている。
京都フィールドワークという実践の場
フレームワークを理論として学ぶだけでは不十分だ。凸版印刷は、選抜した課長クラスの社員を対象に 「京都フィールドワーク」 と呼ばれる1泊2日の研修プログラムを実施した。2019年度から計4回にわたり、約100名が参加している。
なぜ京都なのか。寺社仏閣や伝統工芸の現場には、 何百年もの時間をかけて磨かれた「問い」と「美意識」 がある。参加者はアーティストや職人と対話し、自分の五感で京都の文化を体験する。オフィスで行うワークショップとは、質的に異なる刺激を受ける。
フィールドワークでは、5ステップの「発見」と「調査」を京都の街中で実践する。 既存の業務を離れ、主観的な「引っかかり」から出発する体験 が、参加者の思考のモードを切り替える。
成果と組織への波及
このプログラムからは、2020年2月末時点で 約100件の事業プランが提出 された。数の多さもさることながら、注目すべきはプランの質だ。市場分析から演繹的に導いた「理屈上は正しいがどこかで見たようなプラン」ではなく、個人の違和感や問題意識から出発した、その人にしか出せないプランが生まれている。
TOPPANホールディングスは2023年以降もこのフレームワークを継続的に活用・発展させている。社内選考会では6,000名を超える社員・役員が投票に参加するなど、 組織全体にアート思考的な文化が浸透しつつある 。
2023年11月にはフレームワークの知見を応用した新たな思考法「スペースイノベーションフレームワーク」も発表しており、アート思考の方法論が宇宙・天文学や哲学にまで拡張されている。
なぜ凸版印刷はアート思考の組織化に成功したのか
最大の要因は、 「個人の感性」を「組織の方法論」に翻訳した ことだ。土佐尚子氏というメディアアーティストの思考プロセスを分析・言語化し、5ステップに構造化した。感性を「大切にしましょう」で終わらせなかった。
もう一つ見逃せないのは、 学びの場を日常業務から物理的に切り離した 点だ。京都でのフィールドワークという非日常の環境が、思考のモードを強制的に切り替える。会議室のホワイトボードの前では起きない変化が、京都の路地裏では起きる。
そして経営層の本気度。選抜課長クラスへの投資、社内選考会での全社投票。 「面白い研修をやっている」ではなく、事業開発の本流に位置づけた 。この覚悟がなければ、フレームワークは単なる社内イベントで終わっていただろう。
ビジネスの現場でアート思考を使うと何が変わるか
凸版印刷の事例は、アート思考が「個人の天才に依存する」ものではなく、 組織的に展開可能な方法論 であることを証明した。
ただし、注意すべき点もある。フレームワーク化すること自体がアート思考の精神と矛盾するのではないか——この批判は常につきまとう。5ステップを機械的に回すだけでは、アーティストの思考は再現できない。正解がない局面で、自分の感覚を信じて動き出す勇気。 フレームワークが提供するのは「型」であり、そこに何を込めるかは一人ひとりの主観にかかっている 。
アート思考ワークショップの設計を自社に導入する際、凸版印刷のアプローチは強力な参照点になる。フレームワーク化によって再現性を確保しつつ、フィールドワークの体験で主観性を守る。このバランスこそが、アート思考の組織的活用における核心的な課題だ。
参考文献
- 凸版印刷株式会社・京都大学(2020)「アートイノベーションフレームワーク」共同発表資料 — フレームワークの5ステップと開発経緯を説明した一次資料
- 土佐尚子(2014)『デジタルと伝統の融合——メディアアートの視点から』京都大学学術出版会 — フレームワーク監修者によるメディアアートと思考プロセスに関する著作
- Nonaka, I., & Takeuchi, H. (1995). The Knowledge-Creating Company. Oxford University Press. — 組織的な知識創造プロセスの理論的基盤。アート思考の組織実装との接続点を提供(邦訳:野中郁次郎・竹内弘高著『知識創造企業』東洋経済新報社)
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