公共セクターのイノベーションにアート思考を——MindLab、HDLが切り開いた「問いの設計」行政
デンマークのMindLabとフィンランドのヘルシンキ・デザイン・ラボ(HDL)は、政策立案にアート思考・デザイン思考を組み込んだ先駆的な実験室だった。両者の実践から、公共セクターが「正解のない問い」に向き合うためのアート思考の応用を読み解く。
「行政はアートと最も縁遠い場所だ」と思われがちだ。予算、法規、前例主義、リスク回避——これらはアート思考が最も苦手とするものに見える。しかし2000年代以降、北欧を中心に、政策立案にアート思考・デザイン思考を組み込む実験が本格的に始まった。デンマークのMindLabとフィンランドのヘルシンキ・デザイン・ラボ(HDL)は、その最も先鋭的な事例だ。
両者が問おうとしたのは同じことだ——「行政が扱う問題の多くは、正解が先にある問題ではない」という認識から出発し、「正解のない問い」に組織が向き合う方法を設計すること。この問いの設計こそが、アート思考の核心だ。
MindLab——世界初の「政府内イノベーションラボ」
デンマークのMindLabは2002年に設立され、世界初の政府内イノベーション・ラボとして知られる。デンマーク商工省・内務省・雇用省の三省共同機関として発足し、以来16年間、政策設計にデザイン思考・エスノグラフィ・プロトタイピングを組み込む実験を行い続けた。
MindLabの方法論は、アート思考の観察実践に近い。政策立案チームを「机の上」から外に連れ出し、実際の市民の生活現場で観察させる。失業者の日常に同行し、移民家族の医療窓口体験に付き添い、高齢者が年金申請書類に向き合う場面を記録する——こうして得た「生きた問い」を政策設計の出発点に置く。
「私たちが気づいたのは、行政職員の多くが市民の実際の経験を知らないまま制度を設計しているという事実だった」——MindLabの発足メンバーは後にこう語っている(Apolitical, 2018)。フォームの記入方法が分からず窓口を何度も往復する高齢者、デジタル化されたサービスにアクセスできない低所得世帯——こうした「見えない体験」を見えるようにすること自体が、MindLabの核心的な実践だった。
「LabRats」と呼ばれたプログラムは特徴的だ。各省庁から「変化を起こしたい」意欲を持つ公務員を選抜し、自分の所属部署の慣行を外から見る訓練を行う。アーティストがなじみの対象を「初めて見るように」観察し直すのと同じ構造の訓練だ。この「内部からの異化」が、前例主義的な政策設計に亀裂を入れた。
MindLabが2018年に閉鎖された理由
2018年5月、MindLabは閉鎖された。デンマーク政府の優先課題が「イノベーションと実験」から「行政のデジタル化」へとシフトし、MindLabはデジタル庁へと統合された。
この閉鎖は「失敗」として語られることが多いが、実態はより複雑だ。MindLabが生んだ手法と思想は、世界中に飛び火した。MindLabが設立されて以降、英国のPolicy Lab、シンガポールのHuman Experience Lab、メキシコ・シティのLaboratorio Para La Ciudad——各国の政府がイノベーションラボを設立した。MindLabはその意味で、「自らを解体しながら次世代の実践を産み落とした」イノベーションラボだった。
ヘルシンキ・デザイン・ラボ(HDL)——「問題の建築」を設計する
フィンランドのヘルシンキ・デザイン・ラボ(HDL)は、フィンランドのイノベーション基金「シトラ(Sitra)」の取り組みとして設立された。2008年に現代的な形で再起動(ルーツは1968年にさかのぼる)し、2013年まで活動した。
HDLが提唱したのは「戦略的デザイン(Strategic Design)」の概念だ。HDLによれば、戦略的デザインとは「問題の建築(architecture of problems)を見る力」——課題全体の構造を大きな視野で捉え、より統合的な解決策の設計へと向かう思考の方法だ。
この「問題の建築を見る」という視点は、アート思考の問いの立て方と深く重なる。アーティストは個別の表現技法を問うより前に、「自分は何を問おうとしているのか」という問いの構造そのものを設計する。HDLはこれを政策立案の文脈に持ち込んだ。
HDLが手がけた実践の一例が「SITRAとの高齢化社会プロジェクト」だ。 フィンランドの急速な高齢化に伴う社会保障・医療・住宅の複合課題に、従来の省庁縦割りの発想ではなく「高齢者の生活全体の経験」を出発点にした統合的な設計アプローチを提案した。問題を「医療費増大」と定義するのではなく、「高齢者が尊厳を保って社会とつながり続けるとはどういうことか」という問いに置き直す——この問いの再設計自体がHDLの貢献だった。
公共セクターにおけるアート思考の三つの応用
MindLabとHDLの実践から、公共セクターへのアート思考の応用を三点に整理できる。
第一は、観察の設計だ。 政策立案者を現場に連れ出し、市民の経験を直接観察する実践は、前提とデータへの依存を崩す。数字で捉えられない経験の質——窓口での戸惑い、制度のはざまで支援が届かない感覚——を、設計の出発点に置くことができる。
第二は、問いの置き直しだ。 「この制度をどう改善するか」という問いから「市民が本当に必要としているものは何か」という問いへの転換。HDLの「問題の建築」概念は、課題の定義そのものを設計の対象とすることを可能にする。
第三は、不確実性への耐性の設計だ。 公共セクターの課題の多くは、単一の正解がない複合問題(wicked problems)だ。アート思考は「正解がないことを前提に、問いを持続させる」という姿勢を組織に埋め込む手法として機能する。プロトタイピングと観察の繰り返しが、確実性への幻想を手放す文化的条件を作る。
日本の文脈——「前例主義」を問い直す問いの設計
MindLabやHDLの実践が日本の行政に持つ示唆は、前例主義という構造的な問題への処方箋としての可能性だ。日本の行政組織が「以前と同じように」判断するとき、それは個人の怠慢ではなく、「問いを立て直す機会が設計されていない」という組織構造の問題が多い。
「何が正解か」ではなく「何を問うべきか」を考える時間と場を、行政組織の中に設計すること——これはMindLabがLabRatsで試みた実践に近い。アート思考が公共セクターで機能するとすれば、それは「クリエイティブな行政職員を増やす」ことではなく、「問いを持続させる構造を組織に埋め込む」という設計の問題として捉えた時だろう。
問いの設計は、アートの専売特許ではない。しかし、その問いの立て方の哲学は、アートの実践から学ぶことができる。MindLabとHDLはその可能性を、政府の内部で実証しようとした実験だった。