アート思考で市民中心の行政を設計する——公共セクターに「問い」を持ち込む実践
効率と前例に縛られた行政組織にアート思考を導入する試みが各国で進んでいる。デンマーク・MindLab、シンガポール・GovTech、英国のPolicyLabの実践から、公共サービス設計に「問いを立て直す力」をどう組み込むかを読み解く。
「行政は変えられない」——そう信じている人は多い。確かに行政組織は、法律・予算・前例という三重の制約の中で動く。新しい問いを立てることそのものが、組織の中で「越権行為」として扱われることすらある。
しかし、この十年で世界の複数の国が、行政の中にアート思考を持ち込む実験を続けてきた。その実験から見えてくるのは、「行政が変わらない理由」ではなく、「問いの設計そのものが変われば、行政の動き方が変わる」という事実だ。
「前例主義」という認識フレームの問題
行政の硬直性は、怠惰から生まれるのではない。多くの場合、それは合理的な行動原理から生まれる。失敗のコストが高く、説明責任が問われる環境では、前例に従うことが最もリスクが低い。
これは認識の問題だ。「前例を踏むことが正解だ」というフレームで世界を見ている限り、そのフレームの外の解は見えない。
アート思考が公共セクターに問いを投げるとき、それは「もっとイノベーティブになれ」という抽象的な要求ではない。「今のシステムはどのような前提の上に立っているか」「市民はこのサービスをどう体験しているか」「この問いの立て方は誰の視点から生まれているか」——という、フレームそのものへの問いだ。
アート思考の観察方法論が強調するように、既定のフレームを疑うことは観察のスキルであり、訓練可能な実践だ。行政組織でこの実践を制度化した最も初期の事例が、デンマークの MindLab だ。
デンマーク・MindLab——行政の中の「問いの製造機」
MindLab は、デンマーク政府の複数の省庁が共同で設立した実験的なユニットで、2002年に設立され2018年に閉鎖されたが、その間に行政イノベーションラボの国際的な参照事例となった。
MindLab のアプローチの特徴は、「政策の設計者」と「政策の受け手(市民)」の間にある認識のずれを可視化することを中心に置いた点だ。担当官僚が「市民のために」設計したサービスが、実際には市民にとって機能していないことは珍しくない。しかしその「機能していない」ことが、設計者には見えない。
MindLab は観察調査・参加型ワークショップ・プロトタイピングを政策設計プロセスに組み込んだ。官僚が「市民の生活の場」に出向き、家族の朝の時間を一緒に観察する。失業給付のフォームを高齢者と一緒に記入してみる——こうした実践を通じて、「正しく設計したはずのフォーム」が実際の利用場面でどれほど機能していないかが現れてくる。
政策設計に「体験の観察」を持ち込むことで、設計者の前提が問い直される。 アート思考の顧客観察エスノグラフィーと同じ構造が、ここでは政府組織の中で機能している。
MindLab の影響は広く、英国のPolicyLab、カナダのMaRS Solutions Lab、シンガポールのGovTechなど、世界各地の行政イノベーションラボに実践的な参照軸を提供した。
英国・PolicyLab——政策を「体験として設計する」
英国内閣府に設置されたPolicyLab(2014年設立)は、MindLabの影響を受けつつ、より政策設計のプロセスそのものに踏み込んだ実践を展開している。
PolicyLabが開発した「エスノグラフィック政策調査」のアプローチでは、政策立案者が対象となる市民の日常に長期間同行する。ホームレス問題への政策立案では、政策担当者が路上で生活する当事者に伴走し、「どのタイミングで支援が届き、どのタイミングで届かないか」を体験として記録した。
この調査から生まれた政策変更は、「支援センターの開所時間を当事者が使えるリズムに合わせる」という、データだけでは見えなかった具体的な変更だった。支援が届かない理由が「時間帯の問題」だと気づくためには、当事者の時間の使い方を体験的に理解することが必要だった。
PolicyLabはまた、政策の「シナリオ・ビジュアライゼーション」という手法も活用している。新しい政策が実施された場合の市民体験を、まるで映像シナリオのように描く。これにより、政策担当者は「この政策がどのように届くか」を抽象的な文書ではなく、体験の連鎖として想像できる。
アート思考のコーポレート・ストーリーテリングと同じ原理が、ここでは政策設計に応用されている。物語として想像できないサービスは、体験として設計できない。
シンガポール・GovTech——市民体験をシステムの中心に
シンガポールのGovTech(Government Technology Agency)は、行政デジタル化の推進機関として知られるが、その設計哲学に「市民の体験」を中心に置くアプローチが明示されている。
GovTechが推進する「Whole-of-Government」アプローチの特徴は、行政サービスを省庁の縦割りで設計するのではなく、「市民が体験するライフイベント」を軸に設計することだ。子どもが生まれたとき、失業したとき、引越しをするとき——市民にとって一つの体験が、行政の側からは複数の省庁にまたがる。その縦割りを「市民の体験の論理」で横断する。
これはリミナリティのビジネス戦略応用で論じた「移行期の体験設計」の公共版ともいえる。人生の移行期(出産・失業・引越し)における行政サービスとの接点を、移行期の心理的状態から設計し直すアプローチだ。
GovTechが設けた「Service Experience and Usability Testing Center」では、行政サービスのプロトタイプを市民が実際に使う場面を観察し、機能しない部分を即座に改善するサイクルを回す。官僚が「作りたいもの」ではなく「市民が使えるもの」を出発点にするために、観察のインフラを制度化した。
「説明責任」と「実験」の両立という根本問題
公共セクターでアート思考を実践するとき、避けられない緊張関係がある。「失敗のコストが高い」という行政の現実と、「試して失敗することを繰り返す」という実験思考の相性の悪さだ。
MindLab・PolicyLab・GovTechに共通するのは、この緊張を「小規模な試験的実施(パイロット)」という形で解消しようとした点だ。全国展開の前に限定地域・限定対象でテストし、学習を積み上げてから広げる。これは失敗を許容するのではなく、失敗の影響範囲をコントロールしながら学習を制度化するアプローチだ。
ネガティブ・ケイパビリティの観点から言えば、行政組織における実験の文化化とは、「答えが出ていない状態に留まる能力」を組織として持つことを意味する。「この政策が正しい」という早期確定を避け、市民の体験から学び続けるプロセスを維持すること。
行政のアート思考は、「正解を前提としたシステム」に「問いを持ち込むための制度設計」だといえる。それは簡単ではない。しかし不可能でもない——世界の実践がそれを示している。
参考文献
- MindLab. (2012). Bridging the Gap: Insights from MindLab’s Work on Participatory Policy-Making. Danish Government. — MindLabの設計哲学と主要プロジェクトの記録
- Cabinet Office, UK. (2020). PolicyLab: A Guide to the Methods. UK Government. — PolicyLabが開発したエスノグラフィック政策調査・シナリオ設計の手法ガイド
- GovTech Singapore. (2023). Government Digital Strategy: Designing for Citizens. Singapore Government. — シンガポールのデジタル行政戦略における市民体験設計の哲学と実践
- Bason, C. (2010). Leading Public Sector Innovation: Co-Creating for a Better Society. Policy Press. — MindLabのディレクターによる公共セクターイノベーションの理論と実践書