ヒルマ・アフ・クリントはなぜ「死後20年は公開しない」と決めたのか——今は評価されない仕事の残し方
抽象絵画の先駆けとされるスウェーデンの画家ヒルマ・アフ・クリントは、大作群を生前ほとんど公開せず、死後20年は見せないよう望んだと伝えられる。この判断を手がかりに、今の市場や社内に受け入れられない企画や研究を、後から読める形で残す3つの設計を考える。
出した企画が「今じゃない」と流された経験は、誰にでもあるだろう。却下された案をそのまま捨てるか、通る形に曲げるか。この二択で迷う場面は多い。
20世紀初頭に、第三の選択をした画家がいる。スウェーデンのヒルマ・アフ・クリント(1862–1944)だ。
描いたが、見せなかった画家
アフ・クリントはストックホルムで美術教育を受け、風景画や肖像画の画家として活動した。並行して、仲間と交霊的な集まりを持ち、そこで受け取ったと感じたイメージを絵にした。1906年から1915年にかけて描いた連作「神殿のための絵画」は、193点に及ぶ。丸や渦、色の帯などを大画面に広げた抽象的な絵で、描かれた時期はカンディンスキーの最初期の抽象より早いとされる。
ところが、彼女はこれらをほとんど公開しなかった。一度、思想家ルドルフ・シュタイナーに見せたものの、理解を得られなかったと伝えられている。そのあと彼女は、作品を世に出す道を急がず、死後20年は公開しないよう望んだとされる。亡くなったのは1944年。作品は長く親族のもとで保管された。
転機は1986年である。ロサンゼルス郡立美術館の展覧会「The Spiritual in Art: Abstract Painting 1890–1985」で、作品が国際的にはじめて紹介された。その後も評価は広がり続けた。2018年から2019年にかけてニューヨークのグッゲンハイム美術館で開かれた「Paintings for the Future」展は、60万人を超える来場者を集めたと報じられ、同館の歴代最多とされる。
「公開しない」という判断に見える設計
見せなかったと聞くと、世間から背を向けたように思える。ただ、残された経緯を見ると、作品を未来の見る人へ届けるための判断だったと読める。
そこで、この判断を事業の言葉に置き換えると、次の3点が見えてくる。
1. 今の受け手に合わせて曲げない。 理解されなかった場面で、彼女は絵を通りやすい形に描き直さなかった。連作は構想のまま最後まで描き切られた。却下された案を「通る形」に削り続けると、最初に見えていたものが残らない。評価されない理由が、案の弱さなのか、時期の早さなのかは、その場では切り分けられない。切り分けられないあいだは、中身を削らないほうが選択肢が残る。
2. 見ず知らずの読み手が、あとから使える形で残す。 作品は散逸せず、親族のもとで保管された。作品と一緒に、制作の経緯を書き留めた膨大なノートも残っている。後の世代が展覧会を組めたのは、絵だけでなく、何をどんな順で描いたのかを追える資料が一緒にあったからだ。
3. 「いつまで寝かせるか」を決めておく。 20年という数字は、彼女がこの仕事の受け手が現れるまでの距離を、自分なりに見積もった結果だと考えられる。期限を切っておけば、保管の期間は再開までの準備期間になる。
却下された企画を、3つの手で保管する
これを日常の仕事に移すと、難しいことは要らない。
- 原案を残す。 通すために手を入れた版とは別に、最初に考えた形を日付つきで保存する。
- 前提を書く。 なぜ今は通らなかったのか(予算・技術・顧客の準備・社内の優先順位)を1段落で記す。数年後に読む人は、その前提が変わったかどうかだけを確かめればよい。
- 見直す日を決める。 半年後か1年後にカレンダーへ入れる。条件が変わっていれば、そこから再開できる。
すべてを寝かせればよいわけではない
ここまで読むと、「評価されない仕事は寝かせておけばいつか報われる」と受け取れてしまう。それは違う。アフ・クリントの作品が評価されたのは、時間が経ったからだけではなく、抽象絵画という領域が育ち、見る側に受け皿ができたからだ。待つだけでは受け皿は育たない。
だから、寝かせる案と、いま直して通す案は分けて考える。顧客の声や数字で「中身が弱い」と分かった案は、直すべきだ。一方で、「方向は合っているが、受け手がまだいない」と判断した案だけが、保管の対象になる。この見極めには、却下理由を書き残す習慣がそのまま役に立つ。
次に却下されたら
次に企画が流されたら、まず直す前に、原案・前提・見直す日の3つを書く。そのうえで、通る形に直す仕事と、寝かせる仕事を別々に走らせる。
アフ・クリントは、見せないという決断と、残すという仕事を両方やった。今の評価に合わせない仕事は、あとから読める形で残っていてはじめて、未来の誰かの手に渡る。
参考
- Solomon R. Guggenheim Museum, “Hilma af Klint: Paintings for the Future”(2018–2019 展覧会解説)
- The Hilma af Klint Foundation(財団の公式サイト・作家解説)
- Los Angeles County Museum of Art, “The Spiritual in Art: Abstract Painting 1890–1985”(1986年展)