モンドリアンは何を捨てて、最後に何を壊したのか——事業の原則を削ぎ落とす順序
ピート・モンドリアンは、木や海辺の風景を描く画家から、直線と三原色だけで描く画家へと進んだ。しかも晩年のニューヨークでは、自分で磨いた規則を自ら崩している。この過程を手がかりに、事業の原則やデザインの指針を「足す」のでなく「削る」ときの順序と、守ってきた規則を手放す見極めを考える。
事業の原則やデザインの指針は、放っておくと増える。例外への対応、顧客の要望、部署ごとの事情が積み重なり、最初に5項目だった指針が、気づけば50項目になっている。
オランダの画家ピート・モンドリアン(Piet Mondrian, 1872-1944)は、その逆を生涯かけてやった人だ。足さずに削り、しかも削る順序には一貫した判断があった。
木の絵から、直線の絵へ
モンドリアンは初期、風景や木を具象的に描いていた。1900年代末から1910年代初めにかけて描かれた木の連作では、同じ主題が少しずつ抽象化されていく。幹と枝は、やがて曲線の骨組みになり、さらに縦と横の短い線の集まりへと変わっていった。
1911年にはパリへ移り、キュビスムの影響を受けた。そこから先は、対象の見かけを描くことより、画面を成り立たせる最小限の要素を探る方向へ進む。1917年には、テオ・ファン・ドゥースブルフらとともに雑誌と運動「デ・ステイル」に関わった。モンドリアン自身はこの考え方を「新造形主義」と呼んだ。
行き着いたのは、水平と垂直の黒い線、赤・青・黄の三原色、そして白と灰色だけで構成する画面だ。斜めの線や曲線、混ぜた色などは使わない。使える語彙を、意図して極端に絞ったのだ。
削るときに、何を残すか
ここで見たいのは、何を捨てたかより、何を残したかだ。
モンドリアンが残したのは、「線と面と色の関係」という最小の単位だった。描く対象や再現的な形は捨てている。それでも、画面のなかで線をどこに引き、どの面にどの色を置くかという判断だけは、むしろ細かくなった。線の位置が数ミリ違えば、画面全体の均衡が変わる。
削る作業は、判断を減らす作業ではない。判断する対象を、本当に大事な一点に集める作業だ。
事業に置き換えると、こうなる。原則を削るとき、「迷うことが減るから」という理由で項目を落とすと、判断の質まで下がる。落とす基準は、「それがなくても、本質的な判断は変わらないか」だ。変わらないものは落としてよい。変わるものは、どれだけ数が多くても残す。
最後に、自分の規則を壊した
話はここで終わらない。1938年にロンドンへ、1940年にニューヨークへ移ったモンドリアンは、晩年の作品「ブロードウェイ・ブギウギ」(1942-43年、ニューヨーク近代美術館所蔵)で、それまでの規則を崩した。
黒い線が消え、画面全体を色の付いた細い帯が走る。小さな色の四角が、街の信号や車の流れのように、ずれながら連なる。直線と三原色という語彙は保たれているが、「黒い線で面を区切る」という長年の型は外れている。題名には、ニューヨークの街とジャズへの関心が表れている。
規則を磨き抜いた人が、その規則の核心だった部分を自分で手放した。直線と三原色は残し、壊したのは、守り続けるうちに型として固まっていた部分だけだ。
規則を壊す日の見極め
事業の原則も、長く使えば型になる。型になった原則は、最初は判断を助けるが、やがて新しい状況への対応を妨げる。
壊してよいかを見極めるには、二つの問いが使える。一つめは、その原則は「何を守るため」に作られたのか。二つめは、その目的は、原則を守らなくても達成できる状況に変わっていないか。
モンドリアンの場合、守りたかったのは画面の均衡と純度だった。黒い線がなくても、色の帯の関係で均衡を作れるなら、線は手放せる。目的が残っていれば、手段は替えてよい。目的まで捨ててしまえば、残るのは方向を失った変更だけだ。
あなたの指針は、いまいくつあるか
自分の部署やプロダクトで使っている原則を、実際に書き出してみてほしい。何項目あるだろうか。そのうち、落としても本質的な判断が変わらないものはいくつあるか。そして、長年守ってきたなかに、目的を果たさなくなった規則はないか。
足すのは簡単で、削るのは難しい。モンドリアンが示したのは、削ることが、最も厳しい判断の連続だということだった。