葛飾北斎はなぜ画号を30回以上変えたのか——名乗りを更新し続けて仕事を前へ進める方法
葛飾北斎は生涯に画号を30回以上変え、引っ越しも90回を超えたと伝えられる。名前も住まいも変えながら、描くことへの執着だけは手放さなかった。この姿勢を手がかりに、事業で肩書きや打ち出しを更新するときに「変えるもの」と「変えないもの」をどう分けるかを考える。
名刺の肩書きは、いつ最後に変えただろうか。事業の説明文は、何年前の言い方のままだろうか。
肩書きや打ち出しを変えることには、ためらいがつきまとう。これまで積み上げたものが切れる気がするからだ。江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎(1760-1849)は、そのためらいをほとんど見せなかった人だ。
画号を30回以上変えた絵師
北斎は、生涯に画号を30回以上変えたと言われる。若いころの「春朗」、のちの「宗理」、「北斎」、「戴斗」、「為一」、晩年の「卍」など、時期ごとに名乗りが違う。引っ越しも90回を超えたと伝えられている。数については資料によって幅があり、正確な回数は定かではない。
ただ、名前を変えるたびに、絵の描き方も動いている。北斎は十代の終わりに、当時人気の役者絵で知られた勝川派に入門した。やがてその流派を離れ、狩野派や中国画、さらに長崎経由で入ってきた西洋画の遠近法まで取り込んだ。北斎は流派の看板を降ろすたびに、次の学び先を探した。
名乗りの更新は、気分転換ではない。いまの自分が何者で、何を試している最中なのかを、名前で言い直す行為だった。
変えなかったもの
では、北斎は何も変えずにいたものはなかったのか。あった。描くことへの向き合い方だ。
1834年の『富嶽百景』初編の跋文には、有名な一節がある。七十歳より前に描いたものは取るに足りない。七十三歳でようやく、鳥獣虫魚の骨格や草木の生え方を少し悟った。八十歳でさらに進み、九十歳で奥義を極め、百歳で神妙の域に達するだろう、という趣旨だ。このとき北斎は、七十五歳だった。
自分の過去の仕事を「取るに足りない」と言い切り、まだ先があると宣言する。ここには、名前を変え続けた理由が出ている。肩書きは、過去の実績を守るためにあるのではなく、次の試みを始めるための合図として使われている。
事業に置き換えると、変えてよいものと変えないものは、はっきり分けられる。
- 変えるもの:名乗り、打ち出しの言葉、扱う商品の見せ方、学ぶ相手
- 変えないもの:誰の、どんな課題を解くのかという軸
軸まで一緒に変えると、誰のための仕事かが見えなくなり、迷走になる。軸を決めてあるから、名乗りは気軽に更新できる。
新しい素材を取り込む速さ
北斎の代表作『富嶽三十六景』は、1831年ごろから刊行された連作だ。「神奈川沖浪裏」の深い青には、当時、輸入されて広まり始めた人工顔料の「ベロ藍」(プルシアンブルー)が使われている。新しい素材が手に入ったとき、北斎は七十歳を過ぎていた。
年齢や実績が、新しい道具への抵抗を作るとは限らない。むしろ、自分の軸がはっきりしている人ほど、新素材を「軸を表すための手段」として迷わず取り込める。
実務でも同じだ。新しい生成ツールや販売チャネルが現れたとき、「うちのやり方に合うか」ではなく、「自分たちの軸を、いまより強く表せるか」と問うほうが判断は早い。
描き方を、人に渡す
北斎は、自分の技を人に渡すことにも熱心だった。1814年に出版が始まった『北斎漫画』は、人物、動物、風景、道具などの描き方を並べた絵手本で、全15編にまで広がった。弟子や、絵を学びたい町人が、手本として使ったとされる。
自分の技を出し惜しみしないのは、技がそこで終わりだとは考えていないからだ。渡したあとも、自分はまた次の描き方を探すと決めている。技を囲い込む人は、更新をやめた人でもある。
事業なら、ノウハウを社内の手順書や、顧客向けの手引きとして外に出す行為にあたる。出すことで、自分の側に「次を考える余白」が生まれる。
あなたの名乗りを、今日一つ更新する
最後に、すぐできる作業を二つ書いておく。
一つ目。いまの肩書きと、事業の一行説明を書き出す。そのうえで、直近一年に自分が実際に取り組んだことと照らして、ずれている言葉に線を引く。ずれは、更新のしるしだ。
二つ目。変えない軸を一文で書く。「誰の、どんな課題を解く仕事か」が書けるなら、名乗りの更新は怖くなくなる。書けないなら、更新の前に、そちらを決めるのが先だ。
北斎は1849年、数えで九十歳で亡くなった。臨終の際に、あと五年生きられたら本当の絵描きになれた、と語ったという話も残っている。後世の脚色かもしれない。それでも、この話が語り継がれてきたのは、更新を最後までやめなかった人だと、周囲が受け取ったからだろう。
名前は、過去を守る札ではない。次の仕事を始める合図だ。